『後水尾院』熊倉功夫

『後水尾院』熊倉功夫
今回は熊倉功夫の『後水尾院』。後水尾院とはどんな人物で、どのような時代に生きたのかを松岡氏は紹介してます。それではいつものように要約・引用を。
1624年に始まった寛永年間は20年に及んだ。林屋辰三郎はこの頃の文化を「寛永文化」と名づけた。後水尾院は、その寛永文化の象徴的人物であった。
天正19年、利休が切腹させられた。それは「下克上の精神」の凍結を意味していた。利休の茶は「法ヲ破ルモノ」であったため、「法ヲ破ル」者の象徴として切腹させられたのである。

秀吉は、時代がすべての下剋上を終焉させていることを宣言したかったのである。天下が完全なヒエラルキーになっていることを示したかったのだ。

しかし秀吉が死んでみると、天下は未だに収まっていないことがはっきりする。秀吉の死の直後、後陽成天皇が譲位を申し出る。院政を目論んでいたためである。権力を手中に収めかけていた家康は反対だった。むしろ、禁裏や公家の力を殺いでおきたかった。
このような状況で後水尾が天皇となる。しかし、徳川秀忠の娘・和子が中宮となったことや「禁中並公家諸法度」の制定により、ミカドや公家の後退は決定的であった。彼らには「学問稽古」くらいしか許されない時代となった。後水尾の二条城行幸以降、天皇が禁中を出ることが幕末までなかった。
寛永時代、洛中にはレベルの高いサロンが二つあった。板倉屋敷と鹿苑寺である。ここには知識人や詩文・芸能の才能が集まって交流した。後水尾は和歌が上手く、書が巧みで、花を好んだ。そのため禁中でしばしば花宴を催した。
後水尾院は1651年に落飾し、修学院を造営する。松岡氏は修学院を「なんだかこの世の光景とは思えなかった」「おそらく日本のどこにもない光景だといってよい」と述べている。