卒業

あと何度自分自身 卒業すれば 本当の自分に 辿りつけるのだろう
oh〜 oh〜
仕組まれた自由に 誰も気づかずに あがいた 日々も終わる
この支配からの 卒業〜
戦いからの 卒業〜♪
尾崎豊の『卒業』)


気分を変えて、歌から入ってみた。
と言うわけで大学も卒業である。
一睡もせずに臨んだため、今日はテンションの上下動が激しかった。
朝までオウムの本を読んでいたため、一日中オウム用語を発していた。10年前とちっとも変わってない。
東京国際フォーラムでの卒業式。
かなり高いところに陣取ったため舞台が遠く、自分自身も参加しているという意識が薄かった。外国人の学長が懸命に日本語で証書を読み上げたり挨拶したりしている時、森達也の『A』をパラパラと読んでいた。通常なら雰囲気を味わい、「いま・ここ」を味わうことに神経を研ぎ澄ますのだが、徹夜のせいで集中力を欠いていた。
唯一の救いは、袴姿の女子大生をた〜くさん見れたことだな。
14時からキャンパスで学科別の集会。
この時は気分が優れなかったので、「早く終われ〜」と念じていた。卒業するのは「通常の4年生」が中心であり、我々のような所謂「5年生」はやはり、マイノリティだなと感じた。
その前後は、キャンパスをウロウロしていた。サークルには所属してなかったので、別れを惜しむような集まりもなかったからね。サークルに所属しなかったことを悔やむ気持ちもある。友人との出会い、友人との思い出というものが、一般的な水準に比べて私は圧倒的に少ないと思う。でも、一人の時間を多く持てたことはこの先必ず生きるはずだし、「所属しなかったからこそ知り得たこと」もある。
何と言うのだろうか。「一般的な」大学生活から意識的にずれることによって、ある種の客観性を獲得した。
また、「所属していれば得られたはずのこと」を明確に知った。例えば、サークルに所属して友情の大切さを知るのと、サークルに所属していなかったことで友情の大切さを痛感するのでは、ニュアンスが微妙に異なる。そこにあるのは単なる後悔ではない。「ない」ゆえに、「ある」ことの素晴らしさが分かるのだ。取り返しのつかないことであるがゆえに、「ない」というコンプレックスは増し、「ある」ことの輝きを増す。そうすると、次回から行動が変わる。価値を存分に知った上で、意識的かつ積極的に掴みに行く。
まあ、この1年間はそれを掴みに行ってたのよ*1
18時から、卒業する5年生で飲んだ。
ぐったりきていたので、積極的に切り込まなかった。ちと最近、慢心からか手抜きが過ぎる。初心に戻ろう。


そういえば、「嘆きの謝恩会」からもう1年経ったわけだ。
1年前の自分と今の自分とは、別人であると断言できる。これは誰にも異論を挟ませない。
「目標のためには手段を選ばない」という姿勢は、オウムと紙一重かもしれない。しかし、私には確固たる価値基準がある。日々吸収し、撹拌し、蓄積しているデータベースが。このデータベースを成長させることが、私の将来に繋がることを信じている。

*1:「『オレンジデイズ』の影響だろ!」なんてツッコまないで下さい。その通りですから…