10年前を思い出しつつ

昨日買ってきたオウム事件関連の本を、いくつかパラパラと読んだ。
10年前を思い出したのか、かなりの集中力だった。これを持続せねば。
今後詳しく読んでいくが、とりあえず気づいたことを幾つか。


読んでいて、思わず失笑してしまう所がある。
例えば、麻原が「私はここにキリストであることを宣言する」などと著書に記している点。
ではなぜ、このような荒唐無稽な教祖を信じ、あのようなテロリズムに走ってしまったのか。
一つには信者が「神秘体験」をしていて、それを教祖や修行の賜物と思い込んでいるからである。
しかしそのような「神秘体験」は、薬物、不眠*1、呼吸法などによっていくらでも作り出すことが出来るのだ。
また、教祖や幹部の指示・命令に疑問を覚えること自体が「けがれ」であり、修行が足りないこととされ、「こんな命令は無理だ」と考えるのではなく、「無理だからこそ従わなければ」と考えるようになっていた。これは犯罪に関わった者だけではなく、教団全体に広まっていた思考パターンであるらしい。
そして、弟子の側でも「絶対的な教祖」を求めていたのである。その弟子の雰囲気を感じ取って、教祖の側でも弟子の期待に沿おうとしていた。つまり、「相互依存」の関係にあったと言うことだ。教祖という権威の存在が、自己の責任を回避できる便利な装置になっていたようだ。
信者たちには、「教祖から常に監視されている」という感覚があったようだ。これは『統合失調症』で言えば「筒抜け体験」であり、フーコーで言えば『監獄の誕生』のような権力論になるのかな。
降幡(『オウム法廷』『オウム裁判と日本人』)も宮台(『終わりなき日常を生きろ』)も、戦前の軍国主義的な日本との類似を指摘している。私にとっては、降幡の分析はやや通俗的に感じられ、宮台の分析はそこから数歩掘り下げたものに感じられる。
降幡は、戦後日本の歪みがオウムとして噴出した、とまとめられるだろうか。
宮台の場合、「終わりなき日常」という言葉を使って鋭い分析をしている(繰り返すが、詳細は後ほど)。
まあ、とにかく、罪を犯した信者の話を読んでいると、悲しくなってきたわ。
今日読んだ範囲で印象に残った幹部・鍵を握る幹部は、林郁夫、広瀬、井上、石井、村井(故人)、早川あたり。
この事件には様々な問題が凝縮されている。「今さら」感もあるが、今後詳しく追っていこう。


やべえ、2時間半後に卒業式だ。
今年も寝ないで臨むのかよ…

*1:不眠によって幻覚や肉体的違和感が生じることは、『統合失調症』にも書いてあった