『AKIRA』大友克洋

『AKIRA』大友克洋
昨日『AKIRA』を観た後、松岡氏が第800夜で『AKIRA』について論じていたのを思い出し、ほぼ1年ぶりに読み直してみた。当然松岡氏が論じているのは原作の漫画の方ね。松岡氏は7つの観点から『AKIRA』の魅力を分析している。
1つ目は、「大友克洋の克明きわまりない絵の力」。
2つ目は、「正体を名指しえぬものを描こうとしたところ」。この「名指し得ない正体」を持つものはAKIRAというハイパーシステムであり、タカシ・マサル・キョウコというエスパー集団(顔が皺くちゃな子供たちのこと)である。しかしそれらだけではなく、新興宗教の婆さんも大佐もネオ・トーキョーも国家自体も、正体をしっかり説明できないという点で「名指しえないもの」である。
3つ目は、「静慮(じょうりょ)と破壊とが、増殖と縮退とが、暴力と連帯とが、必ず一緒にあらわれる」こと。そこには中間的プロセスにあたるものが出てこない。物語の中でアキラの破壊に対抗するのは、結局のところ「国家と金田」しかいない。
4つ目は、「不気味なことと無邪気であることはまったく同じだということが一貫している」点。それはエスパー集団の描写に存分に現れている。
5つ目は、「遊び場とはどこかということがたえず追跡されている」点。私たちは本気で遊びたいと言う願望を抱えていて、暴走行為のような「無政府的遊戯」でしか満足感を得られない者たちもいるのである。
6つ目は、「アニメの活劇系や癒し系の全体に対する過激なアンチテーゼ」である点。押井や大友のアニメは商業社会の条件に合わず、公開に至るまで長い時間がかかる場合がある。彼らのアニメは、そのような商業社会とも対決しているのである。
7つ目。ここからはプラトンの『国家』を下敷きにした話になっていく。
国家は成立後にあることを成し遂げる。それは「国家が用意した社会に不適合なものを排除もしくは監禁すること」である。それらは異民族・犯罪者・不治の病の病人・賤民・ユダヤ人などであった。こうした国家による監視対象は、正確な正体を示す名では呼ばれない。何らかのレッテルを貼ることで、「名指し得ない正体」を作り出すのである。例えば社会主義者たちが「アカ」だったり、丸山明宏が「シスターボーイ」だったり。
プラトンの構想した国家は、そうした不埒を作り出さないための理想国家である。「一握りの『愛知』(フィロソフィア)の持ち主だけ」で構成される限定国家である。
で、正直に白状すれば、プラトンと『AKIRA』がどう繋がるのか、皆目分からない。申し訳ないです…