カブトムシの世話係

よう分からん理由から、会社でカブトムシを飼うことになったんです、一昨日。「よう分からん」とは申しましたが、ホントは隅々まで理由を知ってるんですけどね、私。でも、ほら、余計なことを書いて後々門が立ってもバカバカしいじゃないですか、ね。
私が会社に連れてきたのは3ケースに5匹。2−2−1です。バスケットボールのゾーンディフェンスみたいですね。で、5匹のうち1匹はひっくり返ったまま微動だにせず、「ああ、こりゃお天道様のもとに帰ったな」とは思ったんですが、人間はなかなか「死」という奴を受け入れられないもので、そのまま放っておきました。
私が受けた指示は、「夕方に餌のゼリーを交換しておけ」というものだったので、ケースの蓋を開けてコンニャクゼリーみたいな「昆虫ゼリー」を次々と交換したのです。
5匹の中に、サイズが大きくて、背中の光沢が明らかに高級感を漂わせている1匹がいまして、蓋を開けてやるとムクリと動き始めたんですわ。彼は中空に向かって手足―と言ってもカブトムシの場合は全部「足」でしたかな―を必死に伸ばして、背伸びでもするかのような体勢になったのです。「ああ、ここから出して欲しいんだな。そうだよな、こんな狭いケースに閉じ込められれば、誰だって息苦しいよな」とひどく同情してしまった私は、そこから甲斐甲斐しく世話を焼くようになりました、はい。
昨日、会社に来て観察してみると、どうやら新たに2匹が彼岸へ旅立たれているようで、遣り切れない気持ちになりました。ただ、光沢君が無事なのは救いでした。私はGoogle先生にカブトムシの飼育法を尋ねてみたんですがね、環境的にも餌的にも問題なさそうなんです。「風通しがよく、日当たりの良くない、涼しいところで飼え」という部分は、図らずも成就されてましたし、餌も「ゼリーで十分」となってますし。
死因が特定できないまま、今日を迎えました。残り2匹は虫の息でした。まあ、もともと彼らは虫ですけど。今日は比較的多くの人間が会社に来て、「3匹死んでるじゃないか」と口々に言うため、私は3匹の死を受け入れました。「捨てておけ」という指示を無視して、私は3匹を埋めました。
今日はピンと来るものがあって、試しにコップに水を汲んで、丁寧に手で掛けてやったところ、光沢君が動きました。ああ、水が足りなかっただけなのです。水は命の源なのです。
私は調子に乗って、バナナを買ってきて与えました。水も小まめに与えました。渇きを潤すためには、遠慮は無用なのです。野球の練習中、「水を飲みすぎだ」と怒られた記憶が脳裏に蘇っていました。「喉が渇いてるのに水を飲まなかったら、死ぬだろうが」と心の中で反発したものです。
私は光沢君に自分を重ねていました。が、カブトムシの成虫は、どんなに頑張っても9月いっぱいで死ぬ運命にあるらしいです。
ストリートの思想 転換期としての1990年代 (NHKブックス)
『ストリートの思想―転換期としての1990年代』(毛利嘉孝)