田口ランディ『富士山』

「青い峰」「樹海」「ジャミラ」「ひかりの子」の4編が収められた中編小説集。自らの生に違和感を持つ人々が、富士山の存在に一種の神々しさを感じる話。「霊峰」と崇められてきた所以を知った気がする。
とくに「ひかりの子」を除く3篇では、主人公たちは生きることに意味を見出せず、欲望が希薄である。彼らはこのまま生きていても仕方ないのではないかと、一種の諦念を持ち合わせている。はあちゅう先生なら「世の中には説明の要ることと要らないことがあって、その質問は後者のカテゴりーに属するでしょ」と言いそうだ。まあ、それは俺の勝手な思い込みに過ぎないが。
彼らは人との交流をなるべく最小限に済ませておきたいと考えている。他者の干渉を物凄く嫌っている。とくに「青い峰」の岡野はコンビニでバイトをしているのだが、以下のように自らのポリシーを語る。

ここはコンビニだ。コンビニにはコンビニのよさがある。親密さは必要ない。ひっそりと夜中に白い光を求める者たちにとって、感情は煩い磁場だ。感情の磁場のない、真空の空間。引っ張り合いの中で疲れないですむ場所。それが、僕にとっての理想のコンビニだ。
P.26

これは岡野のコンビニ観にとどまるものではなく、生き方全体を貫いている。このような生き方を貫こうとすれば、自ずと限界がやってくるはずだ。そしておせっかいな他者が、社会への参画を促そうとするだろう。しかし、俺はこのような生き方を肯定してもいいのではないかと思う。他者の干渉をなるべく排するような生き方が。「具体的にはどういうことか」と問われれば困るんだけどね。
結局、岡野は自分と似た考え方を持つこずえとともに、ひっそりと虚無に寄り添って生きることを決意する。また「樹海」のユウジや「ジャミラ」の主人公も、他者の干渉を排したいと思っている。
一方、「ジャミラ」でゴミ屋敷に住んでいた老婆は、そのような孤独の中に生きていた。しかし、最終的に社会に引っ張り出されてしまう。ゴミ屋敷を片付けた時が印象的だ。万歳をする地域住民と、寂しそうな老婆。
記憶の不確かさ、自分が認識する世界の不確かさもこの中編集のテーマだ。自分の生きる世界というのは結局、自分の脳が再編集した世界に過ぎない。ラッセルの『哲学入門』にも同じようなことが書かれていた。この点に関しては、「ジャミラ」の主人公が印象深い。彼は自分の観念世界に「穴」を持っている。自分に不都合なことや自分の苦手な人間を、ことごとくその穴にぶち込んでいく。

この穴がどうしても必要だったのだ。いろんなものを捨てないと、目標に向かって突っ走れない。余分なものは捨てないと、山登りがきつすぎる。
P.170

俺にはこの感覚が痛いほど分かる。俺も自分の穴に様々なものを捨ててきた。果たしてこれでいいのかと思いながらも…

富士山 (文春文庫)

富士山 (文春文庫)