パトリシア・スタインホフ『死へのイデオロギー―日本赤軍派』

本書はアメリカの社会学者でありジャパノロジストであるパトリシア・スタインホフが、社会学の視点から連合赤軍粛清事件を分析したもの。彼女はかつて戦前の日本社会の思想的・政治的「転向」をテーマに博士論文を書いており、当初の目的では戦後の転向問題を研究しようと赤軍派の事件に着手したらしい。粛清事件に関わった者たちへのインタビューや裁判記録、獄中での手記をもとに書かれており、事件の全体像がよく分かる。
読んでいて本当に悲しくなった。この場に放り込まれたら、恐らく誰も逃げられない。革命を成し遂げるという使命感。次のターゲットは自分かもしれないという恐怖。閉ざされた集団が生む狂気。やはりオウム事件に似ている。
簡単にまとめてみよう。連合赤軍とは、森恒夫率いる赤軍派永田洋子率いる革命左派が統一してできた党である。指導部は7名(赤軍派3・革左4)、被指導部は22名(赤軍派7・革左15)。グループのトップに就いたのは森恒夫、その下に永田洋子が就いた。この2人のリーダーの資質がその後の惨劇を生んだと言っても過言ではない。人数の少ない赤軍派からリーダーが出たわけだが、それは森が「その場その場の状況に新たなイデオロギー上の位置づけをしていくのが得意だった」*1からである。永田は演説の才能があったが、「他の人がイデオロギー面で指導してくれた方が動きやすかった」*2ためにサブリーダーとなった。大塚英志氏も指摘していたように、彼女は従属する傾向があったのである。
永田によって「遠山批判」がなされた際、森はその批判方法に魅了された。森は「共産主義化」という概念を持ち出す。

森は、新党がどんな革命的行動にも応じられるようになるには、まずメンバーの内面的な準備が必要であり、一人一人が共産主義化されなければならないと主張した。共産主義化という概念の内実がいったいどのようなものであるのかは明らかにされなかったが、とにかくより優れて共産主義化された革命戦士になるために、各自が自分のブルジョア的な行ないを自己批判し、それらを払拭しようというものだった。共産主義化達成の方法は、それぞれのメンバーの弱点を集団的に検証し、個々人が指摘された弱点を乗り越える努力をしていこうというものだった。
(P.149〜150)

この曖昧さがポイントだった。「共産主義化」も「総括」も具体的に何を指すのかよく分からなかった。つまり、どのように解釈しても構わなかった。こういった事情から、何か問題が起こるたびにその出来事に対して森が勝手にイデオロギー的な解釈を与えていった。上記に書いたように森は「その場その場の状況に新たなイデオロギー上の位置づけをしていくのが得意だった」ためである。「総括」に暴力を持ち込んだのも森だったし、最初の死者である尾崎充男が死んだ時に「敗北死」と定義したのも森だった。
森の解釈には誰も逆らえなかった。もし逆らえば次は自分が「総括」のターゲットになるのは目に見えていたし、森の解釈に疑問を持つこと自体が革命家としての弱さであると思ったからである。疑問を持つこと自体が自分の弱さであって、これくらい真の革命家なら乗り越えられるという思考は、麻原の命令に絶対服従していたオウム信徒と同じ考え方である。例えば、教団「労働省」大臣山本まゆみ元被告の意見陳述書には…

同様に自分よりもステージの高い人から指示された場合も、麻原さんの意思と同じだとされていました。とは言っても、修行を始めて間もない人や極めて自我や固定観念の強い人指示された時に嫌だと思う心の葛藤が生じるものなのですが、それは本人の努力不足、自分が至らないためだと考えるのでした。
降幡賢一『オウム裁判と日本人』(平凡社新書)のP.158

このような心理状態は、連合赤軍メンバーやオウム信徒だけの特別なものではないと思う。誰もが陥りうるのではないか。この問題は私にとって重要なテーマなので、簡単に結論を出すことは避けておく。この問題に関連して、スタンリー・ミルグラム服従の心理』が欲しいのだけどなかなか売ってないんだよね。見かけたらご一報ください。
さて、こうした状況で指導部の6名は森に逆らえたはずだった。しかし、永田は疑問を抱えつつも森に従ってしまう。坂口弘は寡黙なタイプで、暴力のエスカレートに疑問を持ちつつもその意思を効果的に伝えることができなかった。山田孝は森に批判をぶつけたのだが、森の反論に納得してしまう。寺岡恒一は「死刑」を宣告され、アイスピックで心臓部を刺された上に絞殺される。ちなみに「死刑」と「総括」は違う。「総括」は真の革命戦士となるための試練であり、本来殺すつもりはない。ただ、「総括」をやり遂げたものがいなかったため、みんな死んでしまったのである。結局「死刑」は寺岡と山崎順の2人にしか宣告されなかった。
総括の犠牲者は12名。世間をあっと驚かせたあさま山荘事件の後に粛清の存在が明らかになり、死体が掘り起こされた。森恒夫は逮捕から10ヵ月後に拘置所内で首を吊った。スタインホフはこの事件を次のようにまとめている。

あとから考えてみても、ここでとどまるべきだったといえる明確な地点などどこにもない。ここから飛び込んではいけないといった、目に見える崖があるわけではないのだ。注意深く歩きすすんでいた人間が、ここにくると突然流砂に足をとられると、はっきりいえる場所などないのである。いいうることはただ、ある人間が泳ぎだし、ちょっと遠くまで泳ぎすぎたということだ。しかし、どのひとかきが余計だったのか、波立つ水のなかで、正確にどの時点で引き返そうと判断すべきだったのか、はっきりと答えることのできる人などいないだろう。もっと賢明で、そんなに遠くまで泳いでいかなかった人もいる。しかし重ねていうが、その境目はいつも、思っているほど明確であるとはかぎらないのだ。
(P.304)

死へのイデオロギー―日本赤軍派― (岩波現代文庫―社会)

死へのイデオロギー―日本赤軍派― (岩波現代文庫―社会)

*1:P.141

*2:P.142