岡倉天心『茶の本』

1906年明治39年)に岡倉天心が英語で執筆した本。本書は桶谷秀昭氏による日本語訳と英語の原文の両方を収録している。私は急いで読む必要があったため、とりあえず日本語訳だけを読んだ。お茶について書かれた本というよりも、お茶を通して書かれた文化論・文明論・芸術論である。
第1章「人情の碗」では、西洋人が東洋人を理解しようとしないことを述べている。「いつになったら西洋は東洋を理解しようとするだろうか。理解しようとするだろうか」「不幸なことに、西洋の態度は東洋を理解するのに好ましいものではない」といった文章からは、西洋人の東洋に対する無理解に苛立つ天心の心情が窺える。つまり天心は、オリエンタリズムを告発しているのである。
第3章「道教と禅道」がまた面白い。茶と禅の結びつきはよく知られていることだが、茶は道教とも関わりがあるのである。道教の思想は以下のようなものである。

すでに言ったように、道教の「絶対」は「相対」であった。倫理学において道教徒は法律と社会の道徳律を罵倒した。彼らにとって正と邪は相対的な言葉にすぎなかったからである。定義はつねに制限である。「一定」「不変」は成長の停止を表わす言葉にすぎない。屈原は言った、「賢人は世とともに推移する。」われわれの道徳の基準は社会の過去の必要から生まれる。が、社会はつねに同じ状態のままでありうるだろうか。共同体の伝統を遵奉すれば、個人は絶えず国家の犠牲にならざるをえない。教育はその幻想を維持するために、一種の無知を奨励する。人びとは真に有徳の人たることを教えられるのではなく、不都合なく振舞えと教えられるのである。
(P.39〜P.40)

方丈記』『平家物語』などに見られる「無常観」と同種のものであろう。上記の文章を読む限り、私は道教の思想にかなり共感できそうである。今後色々と読んでいこう。
一方、禅の思想は…

禅の超越的な内観にとって、言葉は思考の邪魔物にすぎない。仏典のあらん限りの力をもってしても、個人の思索の註釈にすぎない。禅の宗徒は、事物の外的付属物をもっぱら真理の明晰な認識を妨げるものと見做し、事物の内的本性と直接に交渉しようとこころざした。
(P.47)

第5章「芸術鑑賞」もスバラシイですね。ここでは芸術家・鑑賞者双方の心構えが述べられている。芸術を「共感による心の交流」とし、「鑑賞者は伝言を受けとる正しい態度を培わねばならない」と説いている。現代の芸術家に関しては辛口のコメントを遺している。

それにひきかえ、現代の凡作は何と冷ややかであることか!傑作にわれわれが感じるのは人間心情のあたたかい流露であるが、凡作には儀礼的な挨拶しか感じられない。技術に夢中になって、現代の芸術家は自己を越えることはまれである。
(P.71)

芸術家と鑑賞者の交流こそが芸術であるという考え方は、誰かの文学理論・テクスト論と似ている気がするのだが、誰だったか思い出せない。ロラン・バルトだったかな…近ごろは文学理論から遠ざかりすぎたようだ。
本書は利休が切腹する場面で終わっている。それによって、読み終わってからも胸にポッカリ穴の開いたような余韻が残り続ける。悟り?諦念?空しさ?激情を押し隠した静けさ?でも、この感覚は悪くない。

英文収録 茶の本 (講談社学術文庫)

英文収録 茶の本 (講談社学術文庫)