廣松渉『今こそマルクスを読み返す』

しばらくはマルクス漬けでいく。
私はこれまでマルクスの著書もマルクス主義の解説書も読んでこなかったので、私にとっては「読み返し」ではなく「入門」ということになる。マルクス関連の本には触れてこなかったけれども、「下部構造が上部構造を規定する」「プロレタリア独裁」「唯物史観」といった一般常識くらいは知っている。最終的には『資本論』を読破したいので、基礎から着実に積み重ねていこうと思う。別に共産党を支持しているわけでもマルクス主義者になりたいわけでもなく、『古事記』や『聖書』や『源氏物語』を読むのと同じように『資本論』を読もうと思うだけである。
なぜいま読み返しが必要なのか。それは、これまで主流派とされてきた「マルクスレーニン主義」が、依然としてスターリン時代の「ソ連官許マルクス主義体系」を継承しているからである。1956年にフルシチョフによって「スターリン批判」がなされ、スターリンの権威が失墜したのにも関わらずである。本書はルカーチアルチュセールといった多様な解釈ではなく、マルクスが本来何を意図していたのかをできるだけ忠実に解釈したものであると言えよう。新書でありながら密度が濃い。ゆえに、私が気になった部分をいくつか拾い出してみることにしよう。
まず「上部構造」「下部構造」の部分。マルクスは社会全体を建物の比喩で説明した。建築物の土台に当たる「下部構造」が経済的諸関係、上層建築に当たる「上部構造」が政治・法・道徳・宗教・芸術・学問といったものである。一般的にどう解釈されているのか知らないが、私は「下部構造が上部構造を規定する」と覚えていたので、「経済的諸関係がそれ以外のすべてを決定する」と解釈していた。しかし、それだけでは不十分らしい。

この比喩は、屋舎は土台があってはじめて成り立つこと、土台が揺るげば屋舎が倒れること、土台こそが決定的な要因であることを言っているには違いありません。がしかし、土台だけでは建物になりません。現に、社会構成体という建物は屋舎あってのものです。しかも屋舎というものは、決して、単に乗せられている受動一方のものではなく、これが反作用的に土台を圧しつけていることもまた事実です。
(P.46)

つまり、政治的・思想的な支配体制も経済諸関係を規定しているということである。よく考えれば当たり前ではあるが…
廣松氏が最も力を入れているのは「剰余価値」に関する部分である。長々と説明してみよう。かなり大雑把になってしまうが…
生産手段を所有する資本家と、生産手段を持たない労働者。しかし労働者は、「労働力」という商品を所有している(つまり、「働ける」ってこと)。労働者はこの「労働力商品」を資本家に売ることで、賃金を得る。資本家と労働者の関係は、このような「労働力商品」の売買関係と定義できる。これが前提である。
さて、ここからが問題。この賃金は如何にして決まるのか。賃金とは「労働力の生産費」である。つまり、労働者が労働できる状態になるため、労働者の生活が維持されるための費用なのである。故に賃金は労働者の生活水準によって決められる。では、売り上げの残りはどこにいくのか。それが剰余価値として資本家の懐に入るのである。これが搾取の実態である。
終盤、「唯物史観」を説明するくだりでは思わず「あま〜い」と突っ込みたくなってしまった。なぜかと言えば…

幸いこの革命的な過渡期を乗り切り、下部構造の再編(社会革命)が達成されますと、もはや旧勢力は物質的基盤を失うのみか、旧勢力分子も今や新体制に内在化するようになっておりますから、もはや独裁など不必要になります。その局面では、ブルジョアジーも存在しなければ、賃労働者(あの「賃金奴隷」)階級という意味でのプロレタリアートも存在しなくなっておりますので、つまり無階級社会になっておりますので、プロレタリアートの階級的・政治的支配ということも没概念化します。
(P.266)

まず、見通しとして甘いっすよね。革命がそんなに簡単に上手くいくものでしょうか。これを本気で実行しようとしたら、スターリンのように異分子を粛清することになるのでしょう。抵抗する者が現れず、みんなが一様に「革命万歳」と叫んでいるとしたら、それはかなり不気味な光景だ。まあ、廣松氏も自分で「確かに右のままでは余りにも甘すぎます」って言ってるし…
本書を読んでいて感じたことは、マルクスは人間の欲望や欲求を軽視しているのかな、ということ。「もっと楽したい」「もっと儲けたい」「人よりもいい物が欲しい」「人から尊敬されたい」といった欲望が誰にでもあるわけじゃないですか。マルクスは「そんなこと言わずに、程々でいいじゃないですか」と言ってるのかな。
まあ、この1冊だけではマルクスを云々できませんな。

今こそマルクスを読み返す (講談社現代新書)

今こそマルクスを読み返す (講談社現代新書)