R.v.ヴァイツゼッカー、山本務『過去の克服・二つの戦後』

超有名な「五月八日演説」と、その他に5つのヴァイツゼッカー演説が収められていて、終盤には訳者である山本務氏の論考がある。「五月八日演説」は1986年に岩波ブックレットで『荒れ野の40年』として出版されており、そちらの邦訳の方がよく知られているはずである。どの演説もほぼ同じ内容であり、同じ話を何度も聞かされれば、内容の把握もより強固になるというものである。本題に入る前に一つ確認しておきたいのだが、ヴァイツゼッカー氏はドイツ福音主義教会信徒大会の要職やキリスト教民主同盟の代表者を務めるなど、政治家であるとともにキリスト教徒であるということだ。彼の演説に何度も登場する「罪」や「赦し」といった言葉の底流にはキリスト教的な価値観があり、そこに目を瞑って彼の主張の全てを日本に当て嵌めようとすれば、ちょいとおかしなことになる気がする。
まず、ヴァイツゼッカー氏は五月八日を「解放の日」と定義する。

一九四五年五月八日とは、解放の日に他なりませんでした。この日は、私たちすべての者を、人間蔑視の体制である国家社会主義(ナチズム)という名の暴力支配から解放したのであります。(P.22)

ここには、第二次世界大戦を引き起こしたドイツ第三帝国は、ナチスという外部の者によって乗っ取られたドイツであり、一般のドイツ人も被害者であるという考え方が見られる。確かにヒトラーオーストリア出身であり、「外部からの侵入者」という解釈を取りやすかったのだろう。戦争責任を巡る議論で、日本とドイツのどこが違うのかに触れる場合、大抵ここがポイントになる(しかし日中国交回復の際、周恩来が「戦争を起こしたのは一握りの軍国主義者であり、大多数の日本人民も被害者である」と発言しているが…)。
1988年10月の演説では、その点を次のように述べている。

しかし、国家社会主義の下で、ドイツ民族とその隣人にふりかかった事態に対する責任を、ドイツ民族が他に転嫁することは、許されることではありません。ドイツ民族は、犯罪者たちによって導かれたのであり、犯罪者たちによって己自身を導くがままにさせたのです。(P.64)

ヴァイツゼッカー氏は、和解するためには「想起」しなくてはならないと説く。

想起するとは、ある出来事を、それが自分の内面の一部と化するほどに畏敬の念を込めて、かつ純粋な心で、想い起こすという意味であります。(P.23)

この想起を和解に繋げるために、具体的にどのような道筋をたどるのかと思いきや、1989年6月の演説で、「マタイによる福音書」を引用しながら説明している。

罪の告白と悔悟は神に向けられます。赦しは神からやってくるのです。(P.76)

罪を告白して赦しを神に請う習慣を持ってない私としては、これでは納得できませんよ。とは言っても、想起することで初めて前に進めるんだ、想起が全ての大前提なんだ、という感覚は分かる。

いやしくもあの過去に対して目を閉ざす者は、結局は現在に対しても盲目となります。いやしくも非人間的な出来事を想起しようとしない者は、新たな感染の危険に対して再び抵抗力が弱くなります。(P.27)

心に響くお言葉じゃないですか。
ヴァイツゼッカー演説は、ヤスパースが1946年に示した罪に対する考え方を継承している(こちらにも書かれています→西尾幹二のトンチキな見解への批判(笑)を含む文章です(MIYADAI.com Blog))。これはかなり重要な論理だと思われるので、山本氏の論考をまとめてみよう。
ヤスパースは罪責を次の4つに区分けした。
1.刑法上の罪〜ナチ犯罪への直接的な関与者に対する罪。結果として「刑罰」が科される。
2.政治的な罪〜ナチ体制を支持し、ともに参加した罪。結果として「政治的責任」=「補償、政治的権力および政治的諸権利の喪失もしくは制限」「壊滅と強制移住または根絶」。
3.道義的な罪〜ナチ体制に対する「消極的な同調者」。結果として各人の「良心および愛する者たちとの交流」を通じて「洞察、悔い改め、そして刷新」が生じる。
4.形而上的な罪〜その場に立ち会いながら何もしないままでいたことに対する罪。結果として審判者である神の前での「人間の自己意識の転換」が生じる。
まず、前者二つは「作為の罪」であり、後者二つは「不作為の罪」である、と言える。刑法的・政治的な罪は処罰や賠償によって償われるのだが、道義的・形而上的な罪は簡単には帳消し出来ない。つまり、後者二つは今後も考え続けなければならない領域なのである。
ヴァイツゼッカー氏は一貫して、「集団の罪」など存在し得ないと主張している。

一民族全体の罪、あるいは無罪などということは、存在しません。罪は、無罪と同様に、集団に関わることではなく、人間ひとりびとりに関わることであります。(P.26)

ナチス支配下のドイツで子供だった、あるいは生まれていなかった世代は、如何なる重荷を背負うのか。この点に関しては、次のようの述べている。

今日の私たちの人口の大半は、あの当時には子供であったか、まだ生まれておりませんでした。彼らは、自分が犯したわけでは決してない犯罪に対して、自分の罪責を告白することはできませんし、〜略〜しかし父祖たちは、彼らに深刻な遺産を残していったのであります。
私たちすべての者は、罪責のあるなしにかかわらず、老若を問わず、あの過去を我と我が身に引き受けなければなりません。私たちすべての者は、あの過去のもたらす諸々の結果に関わっておりますし、政治的責任を負うているのです。(P.27)

つまり、戦後世代に「罪」はないが、「政治的責任」はあるのである。その責任を果たすことは即ち「想起すること」であり、しかも「集団として」ではなく「個人として」引き受けるべきなのである。


今後は、ドイツの戦争責任に関してもう少し調べてみましょう。

過去の克服・二つの戦後 (NHKブックス)

過去の克服・二つの戦後 (NHKブックス)