リスク社会

内田樹の研究室:個人情報保護とリスク社会
目から鱗だべ…
個人情報の保護を理由に、この世から「名簿」というものが消えてしまったらどうなるか、というお話からスタートし…

それは「緩衝帯」としての中間的な共同体を解体し、個人と社会がダイレクトに向き合う「リスク社会」化に加速することにしかならないと私は思っている。
〜略〜
「個人情報の保護」という発想の根本には、「まず」個人が存在し、それが周囲の共生体と主体的に関係を「取り結んでゆく」という時系列が無反省的に措定されている。
だが、これは事実ではない。
イデオロギーである。

がーん。「個人情報の保護」について色々考えてきたつもりだったが、こういった思考には至らなかったわ。どこに瞠目したかというと、「時系列が無反省的に措定されている」ってとこ。つまり、根本的な前提を当たり前のこととして疑ってこなかった点である。
話を先に進めるとして、ではこの「イデオロギー」とは何かと言えば、

「私」こそが自己決定・自己責任的主体であり、つねに主体であり続けねばならないという「物語」

なぜこの物語が熱く語られているのか。ここがポイントなので長めに引用させていただくと…

「強い主体の仮説」を全社会的に採用する限り、「リスクヘッジすることができる主体」は勝ち続け、できない主体は負け続けるからである。
〜略〜
リスクヘッジすることができる強い主体」とは、まこと皮肉なことであるが、自己決定を下さなくてもよく、自己責任を負わなくてもいい主体のことなのである。
彼らは「閨閥」「門閥」「学閥」をはじめとする無数の地縁血縁共同体や利益共同体のネットワークにしっかりと絡め取られ、その中で自己決定・自己責任の権限のかなりを共同体に委譲する代償として、潤沢な権力・財貨・情報・文化資本を享受している。
当たり前のことだが、「リスク社会」で圧倒的に有利なポジションにあるのは、「内輪のリスト」に名簿登録されており、無数の中間的共同体がリスクヘッジをしてくれるために、主体的にリスクをとる必要のない人間なのである。
それをふつう「強者」と私たちは呼んでいる。
〜略〜
リスクヘッジ」とは「〈私〉の存在があまりに深く周囲の他者の生き方にコミットしているために、〈私〉の利益の増大と損害の回避をつねに周囲の人が〈私〉以上に真剣に配慮してくれるような状態」のことである。

私は3年前、それまでの人生で自分が主体的に決めたことなどほとんどないのではないかと疑問を持った。日常の些細なことから、友人関係、進路、恋愛、スポーツなどあらゆる局面で、誰かの決定に従っている。あるいは、世の流れや常識に照らし合わせて動いている。おかげで人に好かれたが、だいぶ損もした。他人の顔色を窺ってばかりいると、自己の欲望より他者の欲望が優先されて自己犠牲的になるから。
小学校時代から高校時代まで甲子園に憧れていたことすら、「誰かに仕組まれていたんだ」と思った。初恋の思い出すら、「あれは俺が好きだったんじゃない。みんながあの子を好きって言ってるから、俺も好きってことにしておけば無難だ」と気づいた。
だから、全ての決定権を自分の手に取り戻すことにした。「王政復古の大号令」である。
他人・共同体<自分
という図式で生活を送っていると、全ての決定に納得できる。世間の目を気にしなくていい。携帯電話が通じなくても何とも思わない。ただ、決定権が自分にある=責任も自分にある、ということになる。そして、自分が頑張らなくては如何ともし難い。
内田氏の文章を読んで、「「閨閥」「門閥」「学閥」をはじめとする無数の地縁血縁共同体や利益共同体のネットワーク」を自分がかなぐり捨ててしまったことに改めて気づいた。自分の責任において…