メディアの社会的使命

内田樹の研究室」をよく読むのだが、毎度のように「はぁ〜、なるほどぅ」と納得させられる。視野が広く、論理もしっかりしている。何より大事なことは、途中経過にも結論にも「内田樹らしさ」が刻印されていることだ。何か出来事があるたびに、「内田氏ならどう考えるだろう」とチェックするようになってきた。このような方を昔は「知識人」と呼んだのだろう。
さて、今回はメディアについて語られています。多少長くなりますけど、引用させていただきます。
内田樹の研究室:お断りの日々

メディアの社会的使命とは何か?
それは「情報の発信」ではない。
メディアは情報を「発信する」ものではない。
メディア(medium)は、語義の通り、発信源と受信者の「あいだ」にあって、情報を「媒介する」ものである。
「発信」と「媒介」は違う。
メディアの仕事は、世界にうずまくカオティックでアモルファスな出来事の渦の中に手を突っ込んで、ひとつながりの「情報単位」を掬い上げて、それをひとつの「文脈」の中に並べて、読者が携行したり、引用したり、批判したりしやすいように「パッケージ」して差し出すことである。
ネットの情報は本性上「断片」である(それは「断片」であり、「断片」でしかないことに価値がある)。
その「断片」をどういう文脈に位置づけるか(それはその「断片」が「何を意味するか」を決定することである)は読者に委ねられている。
―略―
ある出来事を報じるときに、それとまったく違う時代に違う場所で起きた別の出来事を「並べる」ことによって、その出来事の解釈は一変する。
出来事の報道そのものを改変する必要はない。
それを「どこに」置くか、何の「隣に」置くかで、解釈の幅や方向はまったく別のものとなる。
複数のメディアが併存しているのは、同一の出来事を報道する「違う文脈」が必要だからである。
同一の出来事の報道を「どの文脈」で読むともっとも「意味」として厚みや深みがあるのかを私たちが検証し、吟味できること、それがメディアが私たちの社会に存在することの意義である。
Medium is a message

Medium is a message(メディアはメッセージである)とは、マーシャル・マクルーハンの有名な言葉ですね。この言葉に関しては、今後マクルーハンの本を読んだ時に論評するとして、今は内田氏の文章を見ていきましょう。
メディアは情報を「発信」するものではなく「媒介」するものであり、情報をどのような文脈に位置づけるかによって出来事の解釈が変わる。そして複数のメディアが併存することで、私たちは文脈の違いを検証し、吟味し、選択することが出来る。こういうことですね。
言論の自由」とは、このように言論の多様性が確保されることだと思います。多様だからこそ、私たち受け手は選択できる。生物も、多様な方が生き残りやすいですからね。でも、大多数の市民が好ましくない選択をすることだってあり得るわけです。好戦・反戦で世論が割れたとき、何かをきっかけにして「こうなったら戦うしかないっしょ」「それでも男ですか、軟弱者!*1」となる可能性もあるわけです。そこはメディアの腕次第となるんでしょうかね。