『秀吉の野望と誤算』笠谷和比古・黒田慶一

『秀吉の野望と誤算』笠谷和比古・黒田慶一
久々に日本史がテーマですね。歴史は比較的好きなんですけど、大学を世界史で受験したために日本史の知識は少なめです*1。『秀吉の野望と誤算』は、秀吉による朝鮮出兵とその後の関ヶ原の繋がりについて書かれた本です。
秀吉は朝廷官位と天皇権威によって日本全国を統治したあと、国外に目を向けます。25か条の朱印状によれば、秀吉は後陽成天皇を北京に移して中国を支配する計画を立てていました。また朝鮮は国内と見なし、服属させるつもりでした。
当時の李氏朝鮮は、文民が武官の上に立っていました。中国とは宗主国‐藩属国の関係にありましたが、これは支配‐被支配という関係とは異なり、中国は朝鮮の政治に口出ししませんでした。
1592年、小西行長宗義智の軍が朝鮮に出兵します。釜山は四時間で落ちました。加藤清正軍、黒田長政大友義統軍も続き、漢城(ソウル)・平壌・開城が次々に陥落していきます。しかし明軍の投入により戦局は泥沼化。朝鮮軍では李舜臣が目覚しい活躍をします。和平工作も進まず、秀吉の死によって戦争は終結しました。

秀吉が死んだのちに朝鮮からの撤兵が続いたことは、生命を賭した武将たちにおおいに不満をのこす。小西行長加藤清正の対立、石田三成に対する不満、各武将の論功行賞の凹凸などに加え、秀吉が後を頼んだ前田利家が病没したことも、混乱を招いた。

こうした要因から、関ヶ原では「ねじれの構造」となります。つまり、東軍・西軍、徳川方・豊臣方が複雑に組み合わさったと言うことです。
文禄・慶長の役は、江戸時代には肯定的な評価を得ます。それが明治の「征韓論」に結びついたと言うことです。また、この戦いによって日本に陶芸技術と朱子学がもたらされたそうです。
文禄・慶長の役―空虚なる御陣 (講談社学術文庫)上垣外憲一
これが役に立つようです。

*1:大学受験は日本史だったか、世界史だったかって、けっこう大きいと思います。まぁ、そうだとしても、日本史の本を読んでなかった点については怠慢の謗りを免れませんな…