司馬遼太郎『「明治」という国家』

私は「良太郎」というファーストネームを持っているのだが、この名前は司馬遼太郎に由来している。なぜ「遼太郎」ではなく「良太郎」になったかと言えば、司馬遼太郎ファンの親父曰く「「遼」は名前に使っちゃいけない漢字だった」からだそうな。しかし「遼」の字が名前に入っている人をテレビなどでたまに見かけるから、おそらく「字数」の問題だったのだろう。私も結婚して子供が出来た暁には、わが子に作家の名前をつけようと思っている。いつになることやら。
親父は私に何度も「『坂の上の雲』を読め〜」「『この国のかたち』は凄いぞ」と薦めてくる。しかし、これまで司馬遼太郎の著書を読んだことはない。別に誰かに反発していたわけではなく、時代小説というジャンルに全く興味を持てなかったからだ。時代小説を読むくらいなら歴史書を読むよ、という姿勢である。まあ、現在は「AVから現代思想まで」(永江朗氏のマネ)を標榜してるから、機会があればいつでも読むんだけど。
この『「明治」という国家』も親父からもらった本だ。いつまでたっても司馬君の本を読もうとしない私に、親父が痺れを切らしたのかもしれない。
内容としては、「司馬史観」を平易に語り聞かせたものと言えるだろうかね。「司馬史観」自体は親父に何度も聞かされてきたので、読みながら「なるほどね」と再確認していた。私は大学受験で世界史を選択したので―6年も前のことだが―、幕末から明治にかけてはそれほどあかるくない。余談だが、大学受験で世界史と日本史のどちらを選択したかは、その人の教養体系を大きく左右するように思う。私だけでしょうか?
で、その「司馬史観」とは如何なるものぞという話だが、簡単にまとめてしまうと「明治は偉大だった」という考え方である。幕末に欧米列強の脅威に直面して、綻びはあるものの短期間で近代国民国家を作り上げた薩長土肥を中心とする方々は偉大である、という考え方。中でも司馬君が最も評価しているのは、坂本龍馬勝海舟西郷隆盛大久保利通の4名である。
「歴史上の人物では坂本龍馬が好き」という話をよく耳にするのだが、私にはその感覚がいまいちピンと来なかった。「良太郎」の名を持ちながら。しかし、本書を読んでその感覚が分かった。と言うか、単純な私は「歴史上の人物では坂本龍馬が好き」とか言いそうで怖い。何が怖いって、自分のその影響されやすさが怖い。
明治は偉大だった。では、大正は?昭和は?という流れに当然なるのだが、

そこへゆくと、昭和には―昭和二十年までですが―リアリズムがなかったのです。左右のイデオロギーが充満して国家や社会をふりまわしていた時代でした。どうみても明治とは、別国の観があり、べつの民族だったのではないかと思えるほどです。
(P.7)

親父の話などを総合して考えると、司馬君が評価していたのは日露戦争までのことらしいね。


まあ、私は明治と昭和を別物と考えるのはどうかと思うよ。日露戦争に勝ったことで体制がガラリと変わったわけではなく、昭和は明治の土台の上にあるわけだからさ。

「明治」という国家(愛蔵版)

「明治」という国家(愛蔵版)