木田元『現象学』

現象学 (岩波新書 青版 C-11)

現象学 (岩波新書 青版 C-11)

やっと読み終えた。
ちと難しい。とは言え時間かかりすぎ。新書でこんなに手間取っているようでは、先が思いやられる。集中できてないのか、知能が足りないのか。
まあ、関連する新書は買ってあるので*1、徐々に固めていくかな。
本書はフッサールの創始した現象学が、ハイデガーサルトルメルロ=ポンティと経るに従いどのように深められてきたかを綴っている。
名著らしいが*2、これを読んだだけで分かる人は多くないと思う。現象学自体の難解さもあるだろうが、4人分の思索がコンパクトに収められているので、現象学に馴染みのない私には辛かった。具体例がないので、現象学的な思考がどのように活用されてきたのか、現象学的な思考をどのように活用すればいいのか、ピンと来ない。フッサールには何とかついて行けたが、ハイデガーサルトル辺りで怪しくなり、メルロ=ポンティの頃にはチンプンカンプンだべさ。
35年前の学生*3はもっと多くの本を読み、知的なバックグラウンドも大きかっただろうしね。
さて、分からないなりに纏めよう。
一人一人の思索を見ていこう。
フッサールの思想の展開は、三期に分けられる。
19世紀中葉以降、心理学主義が主流であった。これは数学的思考も論理学的思考も人間の心理現象の一種であると言う考えから、心理学の権限を拡張しようと主張するものである。
初期のフッサールはこの心理学主義に批判を加える。心理現象や思考作業をどれだけ観察して法則化しても、それは蓋然的なものである。この認識に従うと、必然的な統一性を持ち得ないことになる。
フッサールは、一切の理論的関心を離れ、認識体験を純粋に記述するだけの作業を「現象学」と呼ぶ。この主観的な認識作用に、如何にして客観的な内容が与えられるかが問題である。初期の考え方では、客観的なイデア的存在(概念・命題・真理など)が、心的活動のあり方を決めるとなっている。
中期、現象学は成熟する。
現象学的還元」という作業が登場する。これは、常識のようなものを素朴に「あり」とする断定を、いったん保留することだ。先入観、自明性といったものを「括弧に入れて」、それらを検討し直すのだ。
こ、後期は…現象学的な反省によって我々が見出すのは、自分自身の世界への従属である。
とりあえず、フッサールはこんな感じで…(読み返したら、訳ワカラン)
次はハイデガーハイデガーの『存在と時間』は、実存哲学の古典とされているが、本人はあくまで「現象学存在論」であると主張する。『存在と時間』は当初、上下巻を発表する予定であったが、下巻の執筆は断念したらしい。
ハイデガーによれば、人間だけが自己以外の存在者と関わることが出来、自らその存在を存在しなくてはならぬという形で自己自身の存在とも関わりながら、存在とは何かと問いうる特権的な存在者である。このような意味で人間存在を「現存在」と呼ぶ。
現存在は「世界内存在」といった存在構造を持っている。気が付いた時にはいつもすでに世界のうちに投げ出されてあるという「被投性」と、にもかかわらずその世界内存在を己の存在として投げ企てうると言う「企投」。現存在は、その両者が絡み合った「被投的企投」を契機として認める。
哲学的主体は、それ自体が世界のうちに投げ込まれ、世界内部的存在者と関わりあいながら、自己を企投し世界へ超越してゆく、その実存の遂行の中で、自己自身の存在を解釈し、同時にそこに開示される存在の意味を解く人間的現存在である。
もっと優しく解説しろと言われても、現在の私の理解レベルでは無理です。
お次はサルトル。著者は、サルトルの考え方がお気に召さないらしい。文章の端々に、否定的なニュアンスが含まれている。「フッサールハイデガーの解説ということになる」や「驚くべき改竄をほどこしてこれを摂取してゆく」といった感じで。
当時のフランスでは、精神生活を閉ざされた内面の世界に求めてきた。サルトルはその「内的生活」が大嫌いであり、その克服の可能性を現象学に感じ取ったようだ。認識とは己を超えて、己ならぬものの方へ向かっていくことであり、いっさいは外部に、世界のなかに、他の物の中にある。
最後がメルロ=ポンティメルロ=ポンティの考え方は後期フッサールに近い。ページ数が多いので、著者のお気に入りなのだろう。しかし、私にはワカランことだらけである。?マークばかり書き込んであるし。とにかく、ゲシュタルト、身体図式、相互主観性などがキーワードである。


感想を書くためにパラパラと読み返してみたが、本当にワカラン。ショック。

*1:『これが現象学だ』『ハイデガー入門』『ハイデガー=存在神秘の哲学』『メルロ=ポンティ入門』『新・サルトル講義』

*2:岩波新書の青版だしね

*3:本書は1970年初版