内田樹『先生はえらい』
- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2005/01/01
- メディア: 新書
- 購入: 10人 クリック: 88回
- この商品を含むブログ (251件) を見る
内田先生のブログは毎日のように読んでいる。そのブログとほぼ同じ文体で、さらさらと平易に書かれている。不思議な味わいのある独特の文体だと思う。彼の文章は、ついメモを取りたくなるような―実際にメモりまくってるけど―アフォリズム*1に溢れている。
ただ、「中高生向け」ということで冗長な感じもする。例えば
- カール・マルクスによれば(また人名が出てきましたが、気にしないでくださいね。この人も「すごく、頭のいい人」です。とりあえずそれで十分)
- 中国の文化大革命のころの用語です(みなさん知りませんよね、文化大革命なんて)
という表現を目にすると、何となく脱力する。まあ、何度も書くが「中高生向き」だから仕方ない。
「誰もが尊敬できる先生」なんて存在しない、という前提からスタートする。
そして序盤では、「師弟関係」を恋愛に喩える。この辺りは本当に素晴らしい。
- 恋愛というのは、「はたはいろいろ言うけれど、私にはこの人がとても素敵に見える」という客観的判断の断固たる無視の上にしか成立しないものです。
なるほど。そして恋に落ちる時の「どきどき感」は、「他の誰も知らないこの人のすばらしいところを私だけは知っている」という確信から生まれると言う。
そこから、「あなたの真の価値を理解しているのは、世界で私しかいない」→「自分がいなければ、あなたの価値を理解する人はいなくなる」→「だから私は生きなければならない」というロジックで、自分の存在が根拠づけられる。
この「あなた」という部分を「先生」に置き換えてみればいい。
「多様性」や「個性の尊重」という考え方は、究極的には「存在」を保証するものだ。それを恋愛と師弟関係を使って見事に示している。
その後は「対話」「沈黙交易」「貨幣」「交換」という例を使って、コミュニケーションの本質を説いている。
- コミュニケーションの目的は、メッセージの正確な授受ではなくて、メッセージをやり取りすることそれ自体ではないのでしょうか。
- 理解を望みながら、理解に達することができないという宙吊り状態をできるだけ延長すること、それを私たちは望んでいるのです。
「宙吊り状態」を持続させるために、コミュニケーションは「誤解の余地が確保されている」方がいい。言いたいことが分かってしまうと、コミュニケーションは閉じてしまう。しかし、何を言っているのか微妙に分からない状態なら、コミュニケーションは続くのである。
「誤解」や「誤読」にはオリジナリティがある。それによって、メッセージを受信した人間のアイデンティティは基礎付けられるのである。
師弟関係に当てはめてみよう。師匠が発したメッセージを、弟子が自分なりに解釈する(=誤読)。その「失敗の仕方の独創性」によって、他の弟子とは違う「かけがえのない存在」として生きることが出来るのである。
このように私はこの本を解釈したが、これも「誤読」の一つである。
追記:内田先生は、私の高校の先輩のようです。